cosmic dance

 

 

佐藤慶子『五感の音楽』ヤマハミュージックメディア 2002年 読了。自分は五体五感満足でよかった。なんてこたぁ思わない。手札が変わるだけであって、あらゆる事象は明暗を合わせ持つからである(結晶世界風に言えば) 。たとえばろう者の場合でも、他の感覚が五感満足者よりも研ぎ澄まされたり、その希少性を活かして仕事をすることも可能となるだろう。だから、ただ少数派なだけであって決して障害者ではない。多数派の身勝手な解釈に他ならない。

本書に手を伸ばしたきっかけは、音楽を視覚化するにはどうしたらいいか。について思案するためだった。細かい砂をまいた薄い板の縁を、ヴァイオリンの弓で擦ると、砂が幾何学模様を作る「クラドニ・パターン」のことを知った。つまり、既に音を視覚化する術は先人によって拓かれていたのである。そもそも音とは何か。音とは振動らしい。

音の正体が振動なら、絶えず震えている原子は音を纏っていることになる。音の集まりを音楽と呼ぶのなら、原子で構成されたこの世界のあらゆるものは音楽を纏っているのかもしれない。だとすると、図らずも数多の音楽を撮っていたのではないだろうか。ただし、いくら写っていると主張しても、原子のゆらめきは容易には聴こえない。精神が共振したときにのみ、耳打ちしてくれる。ミュージシャンが作った音楽に目をこらせば、情景が浮かぶ。これは作者が情景の原子のゆらめきを楽器や歌にのせるからではないだろうか。そうすることで、聴衆の精神を共振させる。そして、クラドニ・パターンのように振動が情景を脳裏に浮かび上がらせる。これは動的な拡声である。一方で、静的な拡声を行うことは可能か。情景に、内世界をひとつまみ、調合する。具体的には、機材・フィルム・薬品・構図などの選択により、外世界を溶媒とする一葉を作りあげる。そうして出来上がった写真に、耳をすまして見てほしい。

デジタルスキャンされた画像は、写真の薄皮を掠め取ったものにすぎない。展示でオリジナルを見る機会があったら、写真に耳をすますということを意識したいし、意識してほしいことだ。

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分離派の成れ果て

昨年の巨大台風の痕跡が今も残る浜辺にて、自らの首を探して這い回るぬいぐるみと出会いました。

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浜辺はいつだって自分が現実と認識しているものよりも遥かに強度の現実で、度々、漂着してしまう。

孤独は心地がいい。別離の悲しみは最低限がいい。澁澤龍彦にいわせばこれは快楽ではなく幸福を選択してしまっているのだろうな。みみっちい、けちくさい、と揶揄されそうだ。

結晶世界

ジェイムス・グラハム・バラード『結晶世界』中村保男 創元推理文庫 1966年 読了。木や川、鳥や虫、船や家、人間までもが光を湛えた氷のような鉱物に結晶してゆく世界のお話。

「わたしたちの一人一人が各自の肉体的および時間的な同一性というか素姓を手ばなせば、その直接の結果として、不死性という贈り物がすぐに手に入るのです」

一方はもう一方の裏面に他ならない。生と死、光と闇、出会いと別れ… その両面が融け合わさることで結晶し時間の牢獄から解放される。水晶化した体に宝石をあてると、その水晶部分が潮解するという描写があるが、これは時間による治療である。宝石は途方もない年月をかけて出来上がったものであるから、時間が失われ析出される結晶への特効薬となったのだろう。この結晶化を恐れ、逃げ惑う人々だけではなく、嬉々として受け入れる人々も現れる。結晶化は誰にでも平等に与えられる不死性であるから、有難がる人々の気持ちもわかる。

誰もが皆、死を受け入れるために生きている。避けようのない終着までの道程で、あるものは子孫を、あるものは写真を残すことによって、死を自らに馴染ませてゆく。これらはある意味で不死性を会得することに他ならなくて、結晶することと似ている。

自分はいつになったら死んでもいいと思えるだろうか。完全に死を馴染ませて逝ける人は少ない気がする。満足して死ぬために、今日も不満を目や口や鼻や耳の穴からどろりと垂れ流しながら、生きている。

関係ないけど、「大丈夫」って言葉、大嫌い。みじめったらしくて、能天気で、いらいらする。時に言葉は本来の意味から別離し、安っぽい承認欲求をせっせと満たす奴隷へと成り下がる。自戒を込めて。

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深夜暗室

昨日に引き続きフィルムを現像して、今夜こそはとプリンティング。 …びっくりするぐらい上手く行かなかった。禁煙してたんだけど、しょぼくれて一本吸ってしまった。

これまで、アナログでやるからにはアナログでしかできないことを露骨にやったろうと、紙が破れたような縁にしたり、ネガキャリアを削ったり、試行錯誤を重ねてきた。しかし、一つのネガから至高の一枚を産み出そうと30枚ほどボツプリントを量産したところで、縁に関する小細工がひどく邪魔くさく思えてきた。ウィンバロックやアンセルアダムスの写真集を毎日観ているせいかもしれないが。人口に膾炙している綺麗な長方形(あるいは正方形)というフォーマットは洗練されたがゆえの形なのかもしれない。原点回帰。さよなら小細工またきて四角。

昨日、青葉市子さんの10周年単独公演の音源が配信開始された。この公演、ものすごく行きたかったのだけれど、チケットがはずれにはずれたのである(その後、別日の公演でリベンジを果たしました!)。もう、本当に生で聴きたかった…  音源でこの感動、その場にいたら天に召されてたかもしれない… コロちゃんが落ち着いたらまたすぐに会いに行きたいなぁ。ユリイカはまだ読めていません。なんだか悔しくて。関わりたかったなぁ。行動力がない写真家なんて、写真が趣味のおっちゃんと何も変わらないよね。わかってるんだけどさ… ぐちぐち言うのはここまでにしておきましょう… このエネルギーを写真活動へ注げ相原よ。

LUCAさんのnewEPも届いた!銀河鉄道ならぬ銀河舟艇で旅をしているかのような心地にさせてくれる、ゆらゆらと優しく棚引く曲たち… はやく生で聴いてみたい!ステッカーやポスターも素敵… 

この御二方のおかげで深夜暗室は宇宙と接続されるのでした。つまり、光輝燦然たる星々の正体は、僕が捨てたボツプリント。だったらいいのにね。あっ、倉多江美さんの宇宙を作るオトコ、おすすめです。おわり。

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海の睫毛

ただ今2020年4月4日4時48分。

夜が太陽を産み落とし始めました。

その勢いに背を押され、いつかやろうやろうと先延ばしにしていたブログをついに始めます(自己満!)。

万年筆のニブのアイコンに、アナログへの後ろ髪引かれる思いを感じて、はてなブログにしてみました。

ブログのタイトル「海の睫毛」に深い意味はございません。よく海へ行くのだけれど、寄せては返す波が瞼ならば、白波は睫毛のようで、かわいいなぁと思ったことを思い出して、このタイトルに。

トップ画像は油壺マリンパークで撮った、バンドウイルカのジャンボ。イルカのエコロケーション(音を出して、その反響で周囲や自分の位置などを認識する)を知ってから、不確定な未来への恐怖が少し減った。もし盲いても、視覚は聴覚で代替できる可能性がある。写真も撮れる。よね?

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